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その後の話し合いで哀と海里の意識が戻るまでの間、赤井と黄悠大は村主浩平と彼の周辺の情報を集め、コナン、平次、杏香はこのまま月夢神社で待機する事となった。
「私は一旦社務所へ戻る。何かあったら知らせろ」
悠大が運転する車が去ると、ほぼ同時に杏香が立ち去って行く。
「せやけど……あの先生が敵じゃなくてほんま良かったで」
三人がいなくなった途端、緊張した雰囲気から開放されたと言わんばかりに平次が大きな伸びをした。
「あの先生にかかるとジンっちゅう男も『莫迦な男』の一言やからなぁ」
「服部……安心するのはまだ早いぜ」
「あの先生にはまだまだ謎が多い……そう言いたいんやろ?」
ニヤッと笑うと「工藤、お前なんぼある?」と目を輝かせる。
「三つ……か?」
「なんや、同じか。おもろないなぁ」
言葉とは裏腹に満足そうな様子の平次にコナンは苦笑した。
「ほんなら早速答えあわせといこか?」
「一つ目はなぜ彼女が十年近くもの長い間オレ達の前に現れなかったのかという疑問だ。幼児化の事実を悟られないようにするためだけならもっと早く接触して来てもおかしくねえだろ?」
「哀ちゃんの事心配してたんやったら瀕死の重傷負ったあの時に近付いて来ぃへんかったのは不自然やしな。百歩譲っても組織が崩壊した時点で姿見せてもよかったはずや」
「何か理由があるはずだ。この約十年、身を潜めていた理由がな」
「証人保護プログラムの線はどうや?組織を裏切ったあの先生をFBIが匿っとったとしたら……」
「確かに……辻褄は合うが、だったらなんで赤井捜査官が彼女の事を知らねえんだよ?」
「せやなあ……」
「二つ目の謎は組織が壊滅した当時、どうして彼女の存在に辿り着く者がいなかったのかって事だ。組織の構成員は警察とFBIの手で丸裸にされたはずだからな」
「押収したデータに『マラスキーノ』なんちゅうコードネーム、見当たらへんかったしなぁ」
「さっき本人の口からもチラッと出たが、彼女の存在は組織の中でもほとんど知られてなかったみたいだろ?そんな人物が明美さんの監視役だけやっていたとはオレにはとても思えねえんだ。存在自体がトップシークレットだった、という事は……」
「おそらく組織の中枢で極秘任務に就いとったんやろな」
「ああ」
「最後の一つはあの先生が組織を去る前にやらなあかんかった事とは一体何なのかっちゅう事やろ?」
「それが一番分からねえんだ。親友だった明美さんを殺されたのに平静を装ってまであの組織に留まった目的……この辺りにすべての謎を解く鍵が隠されているような気がするんだけどよ」
「どうやら……あの先生にはまだ裏があるみたいやな」
平次の言葉に黙って頷くとコナンは哀と海里が横たわる部屋へ移動した。二人ともまだ意識は戻らないようだ。
『江戸川……いや、工藤新一、お前に志保を守れるのか?』
コナンの脳裏に先程杏香が呟いた台詞がこだまする。約十年前、赤井にも同じような質問を突き付けられた。あの時の赤井と杏香には共通するものを感じるが、だからといって今の段階で彼女を100%信用する事は出来ない。
(本当……損な性分だよな)
思わず苦笑した時だった。
「それはそうと……工藤、お前この姉ちゃんと何があったんや?」
平次がコナンの横に静かに腰を降ろす。
「何って……」
「とぼけたらあかん。あの先生からこの姉ちゃんとジンっちゅう男の話を聞かされた時、何や複雑そうな様子やったからなぁ」
「そ、そうか?」
「少なくとも二人の間に何もなかったっちゅう事が分かって安心した男の顔やなかったで」
「……」
「さっきは外野もおったから気ぃつかん振りしてたんやけど……」
「やっぱり……おめえに隠し事は出来ねえみたいだな」
コナンはフッと苦笑すると「コイツが……ジンの事を真っ先に思い出したのはオレのせいなんだ」と絞り出すように呟いた。
「どういう事や?」
合点がいかないと首を傾げる平次に重い口を開く。「このドアホ!!」と怒鳴られる事を覚悟していたが、意外にも返って来たのは「……ずっと推理の事しか頭にないアホかと心配しとったんやけど……工藤、どうやらお前も普通の男やったみたいやなぁ」という台詞だった。
「……?」
「好きな女と十年近くも一つ屋根の下に暮らしとるんや。全部自分のものにしたいっちゅう欲望を抱かん方が異常やからなぁ。阿笠のじいさんの目があるとはいえ……よう辛抱しとると思うで」
「服部……」
思いがけない親友の優しい言葉にコナンの胸が熱くなる。
「それより……心配なのはあの男に乱暴されそうになった事が哀ちゃんにとって大きなトラウマになっとるっちゅう事や」
「おめえもそう思うか?」
「状況が状況とはいえ怯えて全く動けなくなってまうなんて……いつもの哀ちゃんからは想像出来へんからなぁ」
「ああ……」
「どうやら……また一つ乗り越えんといかん壁が増えてもうたみたいやな」
「バーロー、コイツの過去を考えたらこれくらい壁でも何でもねえよ」
「おーおー、相変わらず気障なヤツやな。耳がかゆうてしゃあないわ」
からかうように耳に指を突っ込む平次に「うっせー」と反射的に返したコナンだったが、その目は笑っていた。



「ん……」
それから小一時間くらい経っただろうか。先に意識を取り戻したのは哀だった。
「お、気ぃ付いたみたいやな」
「哀、大丈夫か?」
「コナン君……平次お兄さん……」
まだ意識が朦朧としているのか哀は頭を押さえるとゆっくり身体を起こした。
「……工藤、オレ、あの先生に哀ちゃんが意識取り戻した事伝えといたるわ」
平次がコナンの耳元でそっと囁くと部屋を出て行く。
「私……一体……?」
「安心しろ。黄の父さんがおめえ達を保護してくれたんだ」
「黄君のお父さんが……?」
ピントが合わないように呟く哀だったが、次の瞬間、自分の身に起こった出来事を思い出したようだ。
「そうだわ……歩美と米花アクアマリーナへ行く事になって……路地に入ったら突然襲われて……」
「歩美って……おい、襲われた時、歩美も一緒だったのか!?」
「え、ええ……」
てっきり哀が襲われたのは歩美と別れた後だと思っていたコナンはその言葉に愕然とした。哀にとって歩美はアキレス腱のような存在だ。その彼女が連れ去られたと知れば黙っていないだろう。
慌てて追跡メガネの電源を入れると幸い歩美は探偵バッジを持ち歩いていたようで反応が返って来た。
「コナン君、歩美がどうかしたの!?」
コナンの尋常ならざる様子に哀も歩美の身に何か起こった事を察したようだ。
「どうやら……奴らに拉致されたみてえだ」
「……そんな!歩美……私のせいで…!」
「心配すんな、歩美の居場所は簡単に掴めるからよ」
「え…?」
首を傾げる哀にコナンは無言でポケットから探偵バッジを取り出した。
「これは…?」
「歩美から聞いただろ?昔、オレ達5人が『少年探偵団』を気取ってたって」
「え、ええ……」
「コイツはその当時使ってた物で一見おもちゃのような代物だが、実は通信と発信機能を備えてるんだ。探偵団を解散した時一旦は回収したんだが、水曜におめえが襲われたと聞いて元太達も黙ってなくてさ。『力になりたい』って言うから連絡用に持たせたんだ。追跡はオレのこのメガネで出来るようになってて半径20q以内なら奴らがどこに歩美を監禁しようがすぐに見付けられ……」
「……」
「……哀?」
「コナン君……コナン君は一体何者なの……?」
「え……?」
「だって……小学生の時からそんな物使ってたなんて……」
「そ、それは……」
「ねえ、どうして隠すの?どうして……本当の自分を見せてくれないの!?」
「……」
「私が記憶を失くしたのだってずっと通り魔に襲われたのが原因だって聞かされてたけど、本当はそんな理由じゃないみたいだし……ねえ、コナン君と私の過去に一体何があったの!?」
「哀……」
「昨日の夜、怖くなって耳を塞いじゃった私が偉そうな事言えないけど……でも……もし歩美に何かあったら、私、絶対後悔するわ!」
「……」
「お願い、全部一人で抱え込まないで……!」
「……こうなった以上、すべて話してやった方がいいんじゃないのか?」
ふいに背後から聞こえた声に振り向くと柚木杏香が立っていた。哀が驚いたように目を丸くする。
「どうして先生が…!?」
「哀、ここ、柚木先生の家なんだ。先生もおめえを守りたいと思っている人間の一人らしい」
「え…?」
「先生は……おめえの姉さんの親友だったんだってさ」
「私の……姉……!?」
哀は愕然とした様子で杏香を見つめた。
「私と江戸川でお前の失った記憶の大部分を埋めてやる事は出来るだろう。聞くか聞かないか……お前自身が決めろ」
「……」
突き放すような杏香の言葉にしばし黙り込んでいた哀だったが、キュッと唇を噛むと「……教えて下さい。私の姉の事を……私の過去を……!」と呟いた。その真剣な瞳にコナンも覚悟を決める。
「……分かった」



最初に杏香の口から哀の本名が宮野志保で本来なら26歳である事、約十年前崩壊した巨大犯罪組織の構成員だった事、両親の跡を継いでAPTX4869という薬を開発していた事、姉の宮野明美を組織に殺され、組織を脱走しようとして服用したその薬の副作用で身体が縮んでしまった事などが語られた。コナンとしてはその話を通して柚木杏香が果たして組織でどんな役割を担っていたのか少しでも伺い知る事が出来るのでは……と期待していたが、「自分も組織の人間だったが明美と親しくなり組織を裏切った」という簡単な説明だけでめぼしい事実は何も出て来なかった。
常識を超越する話に哀の顔はみるみる真っ青になっていったが、彼女が杏香の話を止めようとする事は決してなかった。無意識に時々ギュッと膝に乗せた手を握りしめる姿が痛々しくコナンは自分でも気付かないうちに哀の手を包み込んでいた。
「……私から話せる事は大体こんなところだ。後は江戸川、お前の方がいいだろう」
杏香に促されるまま「そう……ですね」と頷いたコナンだったが、いざ哀の視線に捉えられるとなかなか切り出す事が出来ない。
「……大丈夫だから」
ふいに哀の口から漏れた言葉にコナンは思わず彼女を見た。今にも倒れそうなほどその顔からは血の気が引いているものの瞳には強い意思が感じられる。
(もしかしたら躊躇っているのはオレの方かもな)
コナンは苦笑すると「オレがあの組織の存在を知ったのは高校二年生の時だ」と呟いた。
「柚木先生から薬の副作用の事を聞かされた時、もしかしたらと思ったんだけど……やっぱりコナン君も私が研究していた薬の被害者だったのね」
「ああ。オレの本当の名前は工藤新一」
「くどう……しんいち……」
「今思えば恥ずかしい話だが、当時のオレは高校生名探偵ともてはやされ、事件を解決する度に世間から注目を浴び、自分でも気付かないうちにすっかり天狗になってたんだ。事件が起こると好奇心を抑えられなくて、危険もかえりみず次から次へと首を突っ込む毎日だった……」
「……」
「そんなオレが組織の裏取引の現場に遭遇して黙っていられるはずがなかった。だが……証拠を押さえようとカメラのシャッターを切るのに夢中になっちまってジンが近付いて来るのに気付かなかったんだ」
「ジン……?」
「おめえの夢に長い銀髪の男が出て来ただろ?そいつがジンだ」
「あの男の人が……」
「背後から殴られ気を失ったオレは奴にAPTX4869を投与された。そして……身体が縮んでしまったんだ。オレは自分と自分の周囲の人間の安全を守るため『江戸川コナン』として生き組織を追い続けた。そして……そんなオレの前に現れたのがおめえだった」
「……」
「勿論、最初はおめえの事を元組織の人間という目でしか見られなかったさ。だが、何度も一緒に死線をくぐり抜けているうち……オレは自分でも気付かないうちにおめえに惹かれてたんだ」
「どうして……?だって……私が作った薬のせいであなたの人生は……!」
「逆を言えばAPTX4869のお陰でオレは死なずに済んだんだぜ?他の薬だったら間違いなくあの世に逝ってたんだからよ」
「それは……そうかもしれないけど……」
「そりゃ……ガキの振りして生きる事は大変だったけどよ……そのお陰で随分成長出来たのは否定出来ねえし……それにさすがにあの組織が執着した頭脳だけあっておめえとの会話はいつも刺激的で……楽しかった。それまで同年代で互角なレベルの話が出来るのは服部くらいしかいなかったからな」
「……」
「それだけじゃねえさ。運命共同体だけあって記憶を失う前のおめえはオレの一番の理解者だった。そして……オレにとって精神的な支えだったんだ。もっとも……情けねえ話だが、オレがその事に気付いたのはおめえの中から『工藤新一』がいなくなっちまった後だったけどよ……」
「……」
「だからこそ……今度はオレがおめえを守りたいと思った。本当は人一倍もろくて寂しがりやなくせにいつもクールで強がってばかりいた不器用なおめえをな……」
きっぱり言い切るコナンに哀が言葉を失った時だった。
「メール…?」
ポケットの中から流れる着信音に慌てて携帯を取り出すとボタンを操作する。
「歩美からだわ!」
「何っ!?」
が、そのメールの差出人は歩美ではなかった。現れた文面にコナンと哀の顔が緊張する。
<灰原哀、いやシェリーと言うべきか。お前の友人は預かった。彼女の命が惜しかったら今夜9時、米花総合学園弓道場へ来い>