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行きつけのスーパーを出ると雨足は更に激しさを増していた。
「車で来て良かったぁ……」
新出蘭は思わず呟くとレジ袋を手に駐車場を歩いて行った。家までは歩いて10分かかるかかからないかの距離だし、夫、智明がいつ往診に使うか分からない事もあり、果たして車で来るべきか否か随分迷ったのだが天気予報を信じて正解だったらしい。
五分ほど米花の街を走っただろうか。何気なく歩道を見た蘭の目に赤みがかった茶髪の少女が大雨の中、傘もささずにフラフラ歩いている姿が映る。
「……哀ちゃん?」
慌てて車を停め、傘を手に少女の元へ駆け寄る。
「哀ちゃん…!」
「……」
哀が無言で振り返る。その虚ろな瞳に蘭は驚きのあまり一瞬言葉を失った。
「どうしたの!?ずぶ濡れじゃない…!」
蘭の問いかけにも哀は固く口を閉ざし何も答えようとしない。
「とにかく乗って!」
このままでは自分もずぶ濡れになってしまう。仕方なく強引に哀の腕を引っ張ったものの、ふいに漏れた「ごめんなさい……」という言葉に思わず動きを止めてしまった。
「え…?」
「どれだけ謝っても許してもらえないでしょうけど……私、あなたにどうしても謝りたくて……」
「哀ちゃん…?」
「本当に…ごめんなさい……」
それだけ言うと哀は突然意識を失ってしまった。
「哀ちゃん…!?」



目を開けた途端、真っ白い天井が哀の視界に飛び込んで来た。
「私…?」
どうやらベッドに寝かされているらしいと理解し、身体を起こすと「気がついたみたいだね」という柔和な男の声が聞こえた。
「新出先生……」
白衣に身を包んだ新出智明が穏やかに微笑んでいる。見覚えのある空間に哀はここが彼の自宅に隣接する医院の処置室である事を理解した。
「熱は大分下がったみたいだけど、まだ横になっていた方がいい」
「……」
確かに頭が少しクラクラする。哀は黙って頷くとベッドに体重を預けた。
「智明さん、哀ちゃん、気がついたのね?」
夫の声を聞きつけたのだろう。蘭が廊下から顔を見せた。
「博士に連絡しなくっちゃね。時間も時間だから心配してるだろうし……」
「あ、あの……蘭さん」
「なあに?」
「私……」
自分を真っ直ぐ見つめる蘭に哀はその先の言葉を口にする事が出来なくなってしまった。
「とにかく先に連絡して来るから……」
口ごもる哀を見て何かを感じたのだろう。ふいに智明が蘭の腕を掴んだ。
「蘭、ちょっと待つんだ」
「え…?」
「どうやら何か事情があるみたいだからね。連絡するのは彼女の話を聞いてからにした方がいいんじゃないか?」
「でも……」
心配性の阿笠を思うと少々心が痛むが夫の言う事ももっともである。「……分かったわ。じゃ、私、夕飯の片付けするね」と言うと蘭は処置室を後にした。
「蘭も納得してくれたみたいだし安心してもう一眠りしなさい。何かあったらいつでもこれで呼んでくれればいいから」
智明が哀の枕元にナースコールを置く。
「……ありがとうございます」
瞼を閉じた瞬間、哀は深い眠りに引きずり込まれる自分を感じた。



処置室の窓から差し込む日差しが哀を眠りから呼び覚ました。時計を見ると午前八時を回っている。
(薬のせいかしら?すっかり寝入っちゃったみたいね……)
元々朝がそんなに得意な方ではないが、朝食の準備もあり阿笠邸では六時には起きている。この数日、眠りが浅かったとは言え、この状況下で熟睡してしまった自分に哀は思わず苦笑した。
「あ、目が覚めた?」
扉が開くと蘭が顔を見せた。
「ごめんなさい、すっかり迷惑かけちゃったみたいで……」
「気にしないで。こんな事、看護師時代は日常茶飯事だったんだから」
笑顔でてきぱきと動く蘭の様子に哀はフッと微笑んだ。
「相変わらず……あなたはエンジェルなのね」
その言葉に蘭が動きを止め正面から哀を見据える。
「やっぱり……記憶を取り戻したの?」
「気付いてたのね」
「あなたが私に『ごめんなさい』なんて言う理由、新一の事しか考えられないじゃない?」
「……そうね」
「あの当時……あなたの事を恨まなかったと言えば嘘になるわ。あなたがあんな薬を開発しなかったら……あなたが新一の前に現われなかったら……そう思ったのは事実よ」
「……」
しばし二人の間に沈黙が流れる。それを破ったのは蘭だった。
「だけど…そういう問題じゃなかったのよね」
「え…?」
「本当に新一の事が好きならもっと自分から積極的に真実を追求すべきだったのよ。でも、あの頃の私は『いつか新一から本当の事を話してくれる』『いつか必ず戻って来てくれる』って……新一の方から歩み寄ってくれる事ばかり期待してた……信じて待つ事しか出来ない女だったわ。そんな私が新一と一緒になって戦っていたあなたに敵うはずないじゃない?」
「そんな……」
「否定しないで、事実だから。それに…もしあのまま普通に生活してて新一と付き合っていたとしても、私、新一とは別れる事になったと思うし……」
「え…?」
「私は愛する人にはいつも傍にいて欲しいし、傍にいたい……そういう女なの。事件にばっかりかまけてる新一が相手じゃきっと寂しくて耐えられなかったと思うわ。もっとも……今の新一には事件よりあなたの方が大切みたいだけど。あの推理オタクも十年経って少しは成長したみたいね」
蘭は可笑しそうに呟くと哀の肩にそっと手を置いた。
「大体、結婚式の時あなたに言ったでしょ?『コナン君の事、よろしくね』って。今の私にとっての一番は智明さんなの。新一は初恋の人に過ぎないんだから」
「蘭さん……」
「もう一度言うわ。新一の事、よろしくね」
真剣な表情で言う蘭に哀は黙って頷く事しか出来なかった。



「それから智明さんが診察してくれて『熱は下がったけど用心に越した事はないから』ってもう少し休ませる事にしたんだけど……今日、ちょっと患者さんが多かった上に昼休みに急患が2件もあってね、なかなか哀ちゃんの様子を見に来られなかったの。午後四時過ぎにやっと一息つけて来てみたら……」
蘭がコナンにメモを差し出す。『お世話を掛けました』という文字は間違いなく哀のものだった。
「ごめんね、朝の時点で連絡すれば良かった……」
「おめえのせいじゃねえよ、気にすんな」
「でも……」
「それにしても……本当、女の勘ってヤツはあなどれねえな」
「え…?」
「歩美と和葉ちゃんはアイツの様子がおかしい事に気付いてたんだ。それに引き換えこのオレは……十年近く一緒に住んでるっていうのに情けねえよな」
苦笑するコナンに蘭が穏やかに微笑む。
「……変わったね、新一」
「あん?」
「だって……あの頃の新一はいっつも何もかも見抜いたような自信満々な男だったもん」
「……おめえがそう言ってくれるって事はどうやら人生やり直したのは無駄じゃなかったみてえだな」
コナンはニヤッと笑うと椅子から立ち上がった。
「悪かったな、蘭。世話かけちまって」
「ううん、そんな事……それよりこれからどうするの?哀ちゃんが立ち寄りそうな所は全部捜したんでしょ?」
「まあな。だが、アイツが記憶を取り戻したとなると話は別だ」
「何か心当たりあるの?」
「ああ。おそらく……あそこに間違いねえ」
コナンは携帯を取り出すと阿笠邸を呼び出した。
「……博士?いや、もう新出医院にはいねえんだけどよ、見当はついてっから」
通話を切ると蘭がクスッと笑う。
「新一ったら……哀ちゃんの居場所、博士にも教えてあげればいいのに」
「バーロー、もし違ってたら、博士、ショックで倒れちまうぜ?」
「あら?今度の推理も自信ない訳?」
冷やかすような視線を投げる蘭にコナンは黙って微笑むと「じゃ」と新出医院を後にした。



夕暮れ時のせいか米花アクアマリーナは若い男女の姿が目立つ。幸せそうに行き交うカップルの様子をぼんやり見つめていた哀は店員の「お待たせしました」という声にハッと我に返った。
「あ…すみません」
代金を払い花束を受け取ると賑わいを見せる一角とは別の方向へ歩き出す。海沿いのプロムナードには若干の人影があったものの、道を曲がり辿り着いたその小さな広場には誰一人いなかった。二週間ほど前、杏香が花を供えていた場所にしゃがむと持って来た花束を献花し手を合わせる。
「ずっと忘れててごめんね、お姉ちゃん……」
やっとの思いで言葉を唇に乗せるものの涙が溢れて来てそれ以上口にする事が出来ない。伝えたい事は山ほどあるはずなのに何一つ満足に話せない自分に苛立ちを感じていると、ふいに背後からハンカチが差し出された。
「……ったく。おめえがいつまでもメソメソ泣いてたら明美さんも安心して成仏出来ねえだろ?」
「工藤君……」
「『工藤君』か。おめえがオレをそう呼ぶって事は記憶を取り戻したんだな、灰原」
「幸か不幸か…ね。それにしてもよく分かったわね、私がここにいるって」
「バーロー、伊達に同居人十年近くやってねえぜ?」
「……」
「……で?亡くなった姉さんへの報告は済んだのか?」
「え…?」
「今後の事さ。どうするか伝えに来たんだろ?」
「人の心を見透かすところは相変わらずね、探偵さん」
皮肉めいた台詞を口にするものの哀の瞳は笑っていなかった。
「あなたに聞きたい事があるんだけど……」
「あん?」
「解毒剤。どうして飲まなかったの?手紙と一緒に入れてあったでしょう?」
「おめえな……あんなラブレターと一緒に残された薬を飲めるほどオレが鈍感な男だと思ってんのか?」
「ええ」
あっさり肯定する哀に彼女が記憶を取り戻したという事実を実感しコナンは思わず苦笑した。
「そりゃ…色恋に鈍感なのは認めるけどよ……さすがにあの状況に陥ったらオレだって自分の気持ちに気付くぜ?」
「え…?」
「考えてみろよ、一番大切なヤツから自分の記憶がなくなっちまって……パニックにならない訳ねーじゃねーか」
「一番大切なヤツって…あなたは蘭さんが……」
「ああ、オレだってそう思ってたさ。けどよ、いつの間にかおめえの存在が蘭よりでかくなってたんだ。自分でも気付かないうちにな」
「でも……だからってどうして……」
「薬が二人分あれば話は変わってたかもしれねえけど一人分しかなかったからな。おめえを守るにはオレもおめえと同じ姿でいた方が何かと便利だと思ってよ、江戸川コナンのまま生きる道を選択したんだ」
「……」
「それに……蘭のためにもな」
「蘭さん…?」
「いくら好きでも小学生相手に恋愛ごっこは出来ねえだろ?」
「それは……」
「ずるい選択だってのは分かってるさ。だが蘭の性格を考えるとオレが元の姿に戻ったらそう簡単にオレとの関係を諦められねえんじゃねえかと思ったんだ。勿論、解毒剤の存在は言ってねえ。知ってるのは服部だけだ。この秘密は墓場まで持って行く覚悟さ」
「私の記憶が戻る保障なんてなかったのに……本当、強い人ね」
呆れたように両手を広げて見せるとコナンから視線を逸らし海へと投げる。
「私ね、本当は蘭さんに謝ったらあなたの前から姿を消そうと思ってたの。今更とは思ったけどせめてもの罪滅ぼしにね。でも……」
「でも…何だよ?」
「……止めたわ。昔、あなたに言われた言葉を思い出しちゃったから」
「オレの言葉?」
哀はコナンの方に向き直るとその瞳を真っ直ぐ見つめ返した。
「『運命から逃げるな』って……あなた、言ったじゃない。あなたが江戸川コナンとして生きる道を選択してから十年近い時が流れてしまったわ。その間に築かれた歴史は今の私にはどうする事も出来ない。だったら……逃げちゃいけないって思ったの。その結果としてある『今』を正面から受け止めるべきだって。あなたの想いも…そして……自分の想いも……」
「灰原……」
「私…どうしようもないくらいあなたが好きなの。あなたと一緒に生きていきたいの……」
自分に言い聞かせるように強い口調で言う哀にコナンは穏やかに微笑んだ。
「オレもだ、灰原」
「工藤君……」
「オレもおめえが好きだ。ずっと一緒に生きていこうぜ」
「……」
哀の瞳から涙が零れる。コナンがその華奢な身体を抱き締めようとした時だった。「いた…!」という聞き慣れた声にその方向を見ると海沿いのプロムナードからこちらに向かって駆けて来る歩美の姿が映った。元太、光彦、海里、阿笠の姿も見える。おそらく連絡を待ち切れず探偵バッジを追跡して来たのだろう。
「……ったく、一番いいとこ邪魔しやがって」
悪態をつくコナンに哀がクスッと笑う。
間もなく歩美が息も絶え絶えに二人の元へ辿り着いた。
「コナン君、哀は…!?」
「心配すんな。無事だからよ」
コナンの言葉にホッと胸を撫で下ろした様子の歩美だったが、突然、彼女の右手が哀の頬を打った。
「……!?」
「哀のバカッ!!どうして黙っていなくなったりするのよ!!私…心配で心配で仕方なかったんだから……!!」
次の瞬間、大粒の涙を流し哀を抱き締める。
「歩美……どうやら私は呪文を忘れていた悪い魔法使いだったみたいだわ。それでも……私の友達でいてくれるの……?」
「当たり前じゃない…!!」
「歩美……」
哀は穏やかに微笑むと歩美の背中にそっと手を回し目を閉じた。
「やれやれ、哀君も見付かった事じゃし、これで……ん、どうしたんじゃ新一?そんな難しい顔しおって」
「なんか……灰原のヤツ、オレが見つけた時より感激してるような気がしてよお……」
「コナン、お前妬いてんのか?」
すかさず元太が茶茶を入れる。
「うっせーな……」
「男のやきもちはみっともないですよ」
したり顔で言う光彦に「はは……」と薄笑いを浮かべるコナンの目に哀が姉に手向けた花束が映る。
「これで……やっと安心して眠ってもらえるな」
「コナン君…?」
「……あ、何でもねえよ」
コナンはフッと微笑むと未だ涙が止まらない様子の歩美とその彼女を必死になだめる哀を穏やかな眼差しで見つめた。