哀の口から出た台詞に一瞬絶句したコナンだったが、苦笑いを浮かべるといつもの調子で話しかけた。
「ハ、ハハハ……おい、さすがに冗談きついんじゃねえか?そ、そりゃ……おめえの気持ちに全然気付いてなかったオレが悪かったけどよ」
「……?」
「灰原…?」
「『はいばら』って……誰?」
哀はまったく無表情でコナンを見つめている。
「お、おい、新一、まさか哀君は記憶を……!?」
哀の異変を真っ先に認めたのは阿笠だった。
「姉ちゃん、このじいさん誰か分かるか?」
平次の問いに哀は黙って首を横に振る。その様子にコナンは思わず逆上してしまった。
「な……しっかりしろよ、灰原!!おめえの本名は宮野志保!!薬でこんな身体になっちまっているが、オレもおめえも本当はガキなんかじゃねえだろ!?」
「……!?」
コナンの迫力に哀がビクッと肩を震わせる。
「その薬を……APTX4869を開発したのは他でもない、おめえだ!!薬のデータが手に入ったら解毒剤作ってくれるんじゃなかったのかよ、おい!?」
「工藤、やめ!!」
平次の制止の声にコナンはハッと我に返った。哀はブルブル身体を震わせ瞳から大粒の涙を流していた。その姿は七歳の少女以外の何者でもない。
「灰原……」
コナンは思わず言葉を失った。



鎮静剤を打たれた哀が眠ってどのくらい経っただろうか。病室に哀の手術を担当した医師がやって来た。
「看護師から話は聞きました。どうやら哀ちゃんは記憶を失っているようですね」
「はい」
「術中、何度か心停止しましたから……その後遺症かもしれません」
「先生、哀君の記憶は……?」
「申し訳ありませんがこればかりは何とも言えません。明日戻るかもしれませんし、ひょっとしたら一生戻らない可能性も……」
「そうですか……」
医師は「一番辛いのは患者本人なんですから」と言うと精密検査の日を指定して病室を出て行った。
「……哀君にはこの方が幸せじゃったかもしれんの」
阿笠は哀の掛け布団をそっと直すと呟いた。
「辛い過去をすべて忘れる事が出来たんじゃ。哀君が背負っていた物はあまりにも大きかったからのう」
「せやなあ。ま、命は助かったんやし、贅沢言うたらバチが当たるかもしれへんなあ」
「まったくじゃ」
「問題は解毒剤やけど……組織のデータは警察が押収したんやろ?薬のデータさえあったらじいさんでも解毒剤作れるんやないか?」
「データを見ん事には断言出来んがのう。ま、新一君と哀君のためじゃ。老体に鞭打って頑張るわい」
平次は阿笠と会話しつつコナンの様子を窺った。コナンの表情は相変わらず険しいままだった。
「工藤……」
「……博士、服部、灰原を頼む」
「新一君……」
「悪ぃ、ちょっと一人になりてえんだ……」
コナンは独り言のように呟くと哀の病室を後にした。
「……こんな事になるんじゃったら黙っておった方が良かったのかのう」
病室からコナンが出ていくと阿笠が溜息とともに呟いた。
「何の話や?」
「ほれ、新一君は哀君への気持ちに気付いておらんかった訳じゃから……」
「……いや、自覚させとっただけましやったと思うで。自覚ないままこの姉ちゃんが記憶失くしとるなんて事実突きつけられとったら、工藤のヤツ、パニック起こしとったんやないやろか?何でこの姉ちゃんが記憶失くしたってだけでこないにショックなんやってなあ」
「そうかのう……」
二人はコナンが出て行った扉を無言で見つめるしかなかった。



『一人になりたい』と言ったところで小学一年生の姿では下手な場所をうろつく訳にも行かず、結局コナンは阿笠の家にやって来た。自宅に戻っても良かったのだが、ずっと留守になっていたはずの工藤邸に明かりを点けるのも躊躇われた。ジンを殺した人間の正体が分からない以上、元の姿に戻らないまま工藤新一が生きている事が世間に広まるのはまずい。
病院へ来た時の阿笠の様子から簡単に推測出来たが、案の定、家には鍵が掛けられていなかった。中へ入って行くとリビングの電気は点いたまま、パソコンも立ち上がったままである。よほど哀の事が心配だったのだろう。
(……まるで本当の親子だな)
コナンは苦笑するとパソコンをシャットダウンした。
組織の核心に迫りつつあった時からコナンの行動は追跡メガネを通してこのパソコンに転送されるようにしてあった。それはコナン、阿笠、服部だけの秘密だったのだが、おそらく哀はこの事に気付き、データを自分のパソコンに転送するようコナンの知らないところでプログラムしたのだろう。予備の追跡メガネを隠し持っていない事は確認していたのだが、迂闊だった。哀の自分に対する気持ちに気付いていたら彼女の行動も読めたのではないか?そんな思いがコナンを苦しめる。
(オレは…一体……)
自分はずっと蘭の事が好きだと信じて疑わなかった。いつの間に哀の存在がここまで大きくなっていたのだろう?
答えの出ない問いにコナンは溜息をつくと気持ちを切り替え、地下へ降りて行った。阿笠は入院に必要な物を何一つ用意して来なかった。あの様子ではいつ退院出来るか分からない。当面必要な物を持って行った方がいいだろう。
哀の部屋のドアを開け、電気を点けたコナンは目を疑った。部屋の中は主がもう戻って来ないと思わせるほど綺麗に整頓されていたのだ。
(アイツ……)
ジンとの再会が死を意味する事を承知で哀はコナンを追いかけたのだろう。その覚悟を思うとコナンの胸が痛んだ。
その時、コナンの目に机の上に封筒が二通置かれているのが映った。
「……?」
近寄ってみると一通は阿笠宛て、もう一通は自分宛てだった。
少々迷ったがコナンは『工藤新一様』と書かれたものを手に取り封を切った。